左手の親指への試練

アトピーのせいもあってか、この季節はいつも乾燥に悩まされる。ひどいと手のあちこちに亀裂のようなあかぎれができて、手を洗うときはもちろん、ちょっとした作業でも痛みを覚えることがある。風呂上がりに化粧水やクリームを塗ったおこぼれの恩恵も、ドライヤーで髪の毛を乾かし終わると跡形もなくガサガサになっている。洗い物はずっとゴム手袋だ。
とりわけここ数日困っているのが、左手の親指にできたあかぎれだ。日中スマホ操作で酷使しているからだというのはもちろん分かるが、最近になってこんなにもそれを意識してしまうのはなぜだろう。親指の外側(他の指から離れているほう)にあかぎれができること自体は別に珍しくもなんともないことだ。

じっと見つめながら、左手の親指に与えてきたこれまでの試練を思った。

ピアノを弾く左手の指に課せられるのは、利き手でない手には不似合いな器用さと、離れた音を正確に押さえるための大きさである。
基礎練習では左手も右手同様スケールを整然と弾かなくてはならない。もちろん基礎練習だけではなくて、実際に練習曲を弾くときもそうだ。中にはインベンションなど右手とまったく同じ役割を負わされることもある。ひ弱な左手の中で親指は妙に力強く、それでいてひとつだけ指の長さが極端に違っていて使いにくい。教本に、「音の粒をそろえる」という書き込みを何度したことだろう。
その一方で左手は和音やオクターブを押さえることも多い。1オクターブが先に届いたのは左手だった。以来左手親指はつねにオクターブの高い方を押さえ続けることになる。基本的には小指も同様だが、オクターブが半音で動きながら連打されるようなフレーズでは小指と薬指は交互の出番になる。また、ドとレ(隣接するレの1オクターブ上のレ)、ドとミ(同様)を同時に押さえるよう楽譜で指示されていることもある。前者なら、狙えば届く。後者は股割りのように気合いで無理やり届かせることもできるが、実用からは程遠い。そういうときはドを先に弾いて、その一瞬後にミを弾く。そこで必要になるのはもちろん、正確にミを押す左手の親指の跳躍力である。

初めて携帯を買ってもらったときのことを思い出す。どういうわけか自然と左手で操作するようになっていた。格好をつけたかったのか、母と姉が左利きなのを真似したかったのかは定かではない。iPodもそうだった。ホイールの微妙な操作感が右手ではうまくいかなかった。テトリスやたまごっちまでさかのぼるともはやどうだったかは覚えていない。

ガラケースマホになっても操作は左手の親指のままで、今に至る。携帯を手にメモを取るのは楽なので助かっているが、飲んだり食べたりできるのはあまり行儀がよくない(と言いつつたまにやる)。買い換えたばかりのiPhone7では「確定」「改行」ボタンが遠い。左手をいっばい使ってオクターブを押さえるあの感覚が思い出される。
なら右手も使えばいいではないか。改行や取り消しだけでも右手の親指でやればよいのだ。そう思って右手を添えてみた。すると、右手の仕事はiPhone自体を支えることと、大幅な修正をするのにコピペ部分を選ぶことに落ち着いてしまった。左手の親指が飛ぶようにして右の一列を押すスピードに、右手の親指はついていけなかったのである。

そう、あかぎれを今まで以上に意識してしまったのはスマホを変えたせいで、左手の親指が運動する範囲が増えたからだろう。

今後も幅広の画面を右に左に飛び回る左手の親指を思って、皮膚科に処方されたいつもの薬を塗る。

集団下校今昔

電車通学、電車通勤は都会の人の特権だと思っていた。ラッシュが大変という話は噂程度に聞くけれど、大都市の地上地下にはりめぐらされた交通網の中で想像もできないほどの人々が毎日行ったり来たりするさまには近未来的なかっこよさがあり、その一部となって大都市を縦横にかけめぐる自分を想像すると胸がときめいた。
もちろん地元でも電車通学をしている友達は一定数いた。でも都会の電車通学とはわけが違う。地元を走る電車はといえば、頑張れば自転車で追い抜ける路面電車、郊外と市の中心部(と呼べるかどうか疑いの余地あり)を結ぶ電車、あとはJR。JRに対する意識も地元と都会のそれでまったく違う。私たちにとってJRは街と街を結ぶものだった。かなり大ざっぱに喩えようとするならば、東京の次が吉祥寺、その次が八王子くらいの感覚。市内に住んでいる人間には、まず縁がない。だから通学といえばたいていは自転車で、さらに私のように家と学校が近いと、同じ方面の誰かと連れ立って家に帰るということもほとんどなかった。

上京して、人生初めての電車通学が始まった。通勤通学ラッシュは予想以上で、クラスメートの誰かが「四次元ポケット」と呼んでいたのも納得。それでも、みんなで同じ電車に乗り合わせて帰途につくのは楽しくて和やか。これが都会の「集団下校」なんだなぁと思うと、案外悪くないように感じられた。
ただ都会というのは少し語弊があるかもしれない。終点以外には、2か所しか乗り換え駅がない路線。電車は5両編成。地上を走る。駅間が近いところでは、次の駅のホームがかすかに見える。初めての人間には比較的とっつきやすい路線だったといえるだろう。ほとんどの友人は沿線の同じ方向に住んでいて、「○○駅=△△の家」のように、それぞれの駅と結びつく友人の顔があった。2年間住み、最寄り駅と大学の最寄り駅の間のすべての駅で一度は下車した。学生街、住宅街、物流拠点など、それぞれの駅=街に異なる表情があるのが好きだった。

就職をして、同じく都内だが別の路線を使うことになった。乗車区間は同じく8駅分、同僚の多くが同じ路線を利用して帰る。通勤通学ラッシュはやはり厳しい。集団下校は集団帰宅へとグレードアップしたわけだが、どこかそっけない。
明確な違いの一つ目としては、電車が地下であること。同行している人とちょっと話題に困ったときの目のやり場がない。会話が続かないとついスマホに目をやってしまう(一抹の罪悪感を覚えながら)。また当然のことではあるが、地下鉄には風景の移り変わりがない。駅間の真っ暗闇はもちろん、駅のホーム同士にも大きな見た目上の変化はなく、ただ物理的に移動しているだけ…という印象がつきまとう。
違いの二つ目、乗り換え駅の多さ。職場までのすべての駅が他の路線(しかも都心と郊外を結ぶ線)との乗り換え駅だ。こうなると自然と、「○○駅=△△さんの家」よりも「△△さんの乗り換え駅」という例の方が多くなる。したがって、その駅にまつわるストーリーを聞く機会が限られていて、「住んでいる」感覚と結びつきにくい。

今の路線を使い始めて2年が経った。何だかんだですべての駅で下車する用事もあった。でも、かつて上京後すぐに感じていた「ホーム」感がない。もしかしたら、いま体験しているこれこそが真の都会の電車通勤なのかもしれない。考えてみればそうだ。地下にあって、乗り換え駅が多いなんて何ら珍しいことではない。むしろ最初に経験した集団下校の安心感を愛し過ぎたのだ。最近になって、やっとそう思うに至ったのだった。

各階止まり

私の勤め先は 44階建てのオフィスビルにある。階数が多いのでエレベーターは低階層・中階層・高階層・さらに高階層行きに分かれており、それぞれ該当する階と1階2階を結んでいる。8基ずつ運行しているのに、朝は信じられない混みようだ。エレベーター前には十数メートルの行列。その中に同じ会社の人を見つけるのも、それだけでなんとなく気まずい。
しかも運の悪いことに、会社のあるフロアはn階〜(n+11)階に止まるエレベーターの中の(n+10)階にあたる。これが一番損なパターンであることはお分かりだろうか。(n+11)階には次の階層のエレベーターも止まり、そちらを使えば2階から直通で行けるため、そもそもこの階層のエレベーターを利用する必要がない。だから階層内で実質最も遠い(高い)位置にある我らがオフィスにたどり着くまでに、n階以降の全フロアに止まる可能性がある(下りも同様)。特にラッシュ時はほぼ各駅停車、いや各階止まりを余儀なくされる。ただ混むだけが朝の憂鬱ではないのだ。

ところでインターン生を経て新入社員になった私は、エレベーターに乗ると即座に階数表示ボタンの前に陣取る習慣がついた。相手が自社員であろうとそうでなかろうと、「開」「閉」の操作はつとめて自分で行うようになった。それだけではない。右手が塞がっているときに左手の中指と薬指で「開」ボタンを押しながら親指で「n+10」ボタンを押す技、エレベーターの扉が開いたときにその扉の厚みの部分を鏡として利用し中にまだ人がいるかどうかを判断する能力を身につけた。さらには、反対に2階に降りてエレベーターの扉が開いた瞬間、見える限りの空間の左右の明るさと音の広がり方を比較して、どちらがロビーに近いかを判断できるようにすらなった。

こうして各階止まりのエレベーターで行ったり来たりを繰り返すこと2年、開閉係に徹するのが必ずしも美徳ではないと感じる瞬間が増えた。同じ階層の中にはお堅い会社もままある。その会社の明らかに偉そうな人と、明らかに下っ端らしい人と乗り合わせたときは、エレベーター係を譲るのが得策だということに気づいたのだ。これは下っ端が偉い人に対して気配りするチャンスなのである。それをむざむざ他の会社の(上りなら、階数表示を見ればどこの会社かはバレる)一介の気の至らぬ新卒に潰されるなんてもったいない。私はそういう雰囲気を感じとったときは、黙ってその役割を譲ることにしている。

もちろん、何もこんな憶測に満ちた人間観察ができることだけがエレベーターで過ごす時間の面白さだというわけではない。うまくいけば、突然、一定時間独りになれる。まれに誰とも乗り合わせず、途中で誰も乗ってこないストレスフリーな独りだけの時間を楽しむことができる。
独りきりの密室であなたは何をするだろうか?私はもちろん大声で歌いまくっている。ドアが開いた瞬間はっとした表情の私がいたらその証拠なので、どうか見逃してやってください。

5つの物語からの脱出

夢を見た。

夢の中身は脱出ゲームだった。全ての参加者にA4の紙6、7枚が配られる。紙には物語(事件)の一場面が書いてあり、参加者は他の参加者と交流しながら物語の断片を集め、ひとつづきの物語を完成させることを目指すというものだった。
物語は全部で5つ。それぞれ5つの場面から成っていて、脱出成功の条件は5通りの物語の5場面、つまり計25場面の情報を集めることだった。さらに、各参加者に配られる紙には必ず1枚「あなたは物語Xの○○です」という、5つの物語のいずれかにひもづいた自分の役割を示す紙が含まれており、ある物語の登場人物として、そして同時に他の4つの物語の目撃者として物語を解明することが求められる。特筆すべきは各物語に「犯人」がおり、自分が登場するのと同じ物語の犯人に素性を知られてしまうとその場でゲームオーバーとなる。逆に犯人は自分の物語の他の登場人物を演じる人間が先に全員脱出すると、その時点でゲームオーバーとなる。
5つの物語が交差する脱出ゲームの舞台は、隠れ家のような雑然としたつくりの船内。脱出時に船着き場の光景が見えたのできっとこれは船の中なのだと思った。ただしイメージとしてはハウルの動く城の中が近い。近くに人の気配を感じながらも、その人が犯人か否かをとっさに判断して逃げるか姿を現すかを決めなければならない。確かスカウターと小銃のような小道具も支給されていた気がする。そんな中で私は小学校の同級生だった女の子と行動をともにしていた。中高の同級生や職場の先輩が次々と謎をクリアしていくのを横目で見ながら、中二階の隠し部屋に避難して下のフロアを覗きつつ集めた情報をを照合していた。犯人が誰か、どこにいるのか、まったく検討がつかない。隠し部屋から打って出るべきか否か…迷いのうちに目は覚めた。

備忘録

ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。「より脅かしてないほう」を選びます。「より正義を語らないほう」を選びます。「より失礼でないほう」を選びます。そして「よりユーモラスなほう」を選びます。
 
『知ろうとすること。』早野龍五 糸井重里

クリップ

あるデパートの1階アクセサリー売り場で、眼鏡の青年が黒いクリップを手にとっていろんな角度から見ているのが目に留まりました。誰かにあげるためだったのか、機構が気になっていたのか、できるなら後者だったらいいなと思いながら目をそらしました。