香川へ

「岡山まで3時間、岡山から3時間」と愛媛の実家のことをよく自嘲してはいるものの、独りで電車で瀬戸内海を渡って帰ってきたことは一度もない。おかげで新幹線から在来線に乗り換えるのに不安を抱いていたが、思いのほかあっさりと乗り込めてしまった。
今回は実家より手前の、岡山からおよそ1時間の地点を目指していた。瀬戸大橋を渡り、対岸の石油コンビナートの工業地帯を抜け、海に沿って走っていく。耳にしたことのあるいくつかの地名が互いにどういう位置関係になっていたかを知らず、自分の乗っている特急がこの先どの駅に止まるかすらも知らず、降りる駅を最後まで迷った。

そして、そもそも何のために自分が不慣れな馴染みの土地で逡巡しているのか、よく分からなかった。

 

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従兄の助けを借りて会場へ着くと、リラックスした表情の親戚たちがめいめいロビーで待機していた。両親と叔父叔母夫婦はさすがに少し忙しそうな様子。祖母は張り切っていると言っている。香川に帰るのは夏以来である。

親戚の一人に、まだ時間があるからお顔を見てらっしゃいと促される。

お棺を覗き込んだ。誰もが口をそろえておじいちゃんが亡くなったなんて信じられないと言う意味を改めて理解した。旅が始まったときからそうだったが、このときも、その後のお通夜でも、そして寝るまで、何故自分がいまここにいるのかが不思議でならなかった。何をしに来たのか。誰のために何をしているのか。

ただ、祖母が、家に戻る直前まで祖父の顔を見つめていたことだけが心に残った。

 

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翌朝祖母を迎えに家に向かった。見慣れた実家に黒白の幕が巡らされ、告別式案内の看板が石塀に掛けられているのを目にして初めて、身内で不幸ごとがあったのだと悟って心が重くなった。祖母はきちんとした身なりで、杖をつきながら車に乗り込んだ。

それでも何のためにここにいるのかを未だに測りかねて、焼香の順番が思いの外早く回ってくることにも戸惑っていた。

 

最後の対面、ということでお棺が開けられた。住職さんにも言われて祖父の額に触れてみた。触れながら心の中でおつかれさまを言うと同時に涙が溢れてきた。
母方の祖父が亡くなったときは、こんなに悲しい出来事があっていいものかと泣きじゃくっていたし、元々が涙もろいと分かっているだけに、この瞬間までほとんど涙を流すことがなかった自分に不信感すら覚えていた。実感は湧かないままだが、不信感はようやく解消されて、一時の悲しみに浸った。

お棺に入れてあげた胡蝶蘭の花びらは、祖父の額と同じひたっとした手触りをしていた。

 

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 出棺のとき、祖父が生前に歌った「千の風になって」の録音が流れ、親戚一同泣き笑いのまま会場を出た。こんなに可笑しいのに、なぜこれが出棺という出来事で、父が霊柩車に乗り、それを追うように皆でタクシーに乗って斎場に向かったのか不思議に思えた。斎場では今一度お焼香をして、「い」「ろ」「は」と3つ並ぶエレベーターのような装置の「は」にお棺を入れた。一同が手を合わせ、黄色いボタンが押された。


お骨はほとんどが形を留めていたが、グロテスクとは感じられなかった。骨壺に入れるため小さくしようとしても割れない骨に、生前祖父がいかに健康だったかを知った。ただ、下腹部に黒く焼けた跡があったのを見て、ここが悪かったのだなと皆して納得するのだった。祖父は4年半ほど前に倒れて以来入退院を繰り返していたが、こうして癌も焼いてしまえば、すっきりして元の健康を取り戻したことだろう。祖父の闘病を支えていた背骨の最下部を骨壺に入れた。

 

戻って仕上げの法要があり、その後お弁当を食べて式はすべて終了となった。こうしていつものように談笑している親戚一同の姿を見るにつけ、なぜ宴会好きの祖父が写真から出てこないのかと首を傾げずにはいられなかった。

そのまま、香川を後にした。

 

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来るべき時が来、そして過ぎる悲しみが通り抜けて行った一方で、やはりまだ旅の間の違和感が残っている。